11月4日、高松市生涯学習センター「まなびCAN]で行われた、香川県教育カウンセラー協会主催による、「教育カウンセリング研修講座」に参加しました。
この協会の親会である、NPO日本教育カウンセラー協会の会長である國分康孝成徳大学教授の「教育カウンセリング概論」の講演でした。
学校教育の現場で、さまざまな悲惨な事件が続発しています。これらの事件の多くは、子どもの個々の問題だけではなく、学校という集団の抱える問題であると思っていました。
この問題は、今に始まったことではなく閉じこもりや不登校・いじめ(子供同士だけではなく先生によるものもある)等、ひいては自殺と、何時も執り沙汰されています。
特に大きな社会問題となってきた平成7年から、臨床心理士(臨床心理学)がスクールカウンセラーであるとされてきました。ところが現状を見ると一向に改善されたように見えません。実態はどんどんひどくなっていると思われてなりません。何か根本的な誤りがあるのではないかと思っていました。
今回の講演を聴講することで、新たな気づきがありました。
スクールカウンセラーは、治療を目的としているために、教育の現場である学校(学級)では効果が得られにくいのではないのかとの指摘でした。
学校は「教育」の場であり、「治療」の場ではないということです。
このような疑問から、学校、学級、保護者が変わるカウンセリングをしなければならない、との考えが生まれました。
これが「教育カウンセラー」です。
以下、講演の一部です。
「教育カウンセラーは何故生まれてきたか」
教育の場である学校において、今までのカウンセリング(スクールカウンセリング)が何故役に立たなかったのか?
一つは、あまりにも個の心の問題に多くの原因と解決(治療)を求めたところにあります。
もう一つは、教師に治療をさせることが間違いだったことです。
これらの問題点について、教育は子どもを社会化することであり、たとえば「自分はいじめていないと思っているが相手はいじめられていると思っているよ」この思いが客観的に見ることのできる教育をすること。また、「世の中の人々は、さまざまな想いで生きている。君のためだけに生きているのではない。」という考え方が求められるのではないか。
そして、もう一つの問題点については、教師は「教育者」であって治療者ではないのです。そもそも教師は個ではなく学級という集団を相手にし、社会性を教育する役割を担っているのだということです。
この考え方は、個の心の問題に取り組む「スクールカウンセラー」では対応できないのです。
「死に方を教えるとは生き方を教えることだ。」であるとか、
「人生は自分たちのために作られたものではないのだから、想いどうりにならないことなんて幾度となくある。」だから苦境をどのように意味づけるのかなどは、「教育カウンセラー」とは人生の師であると言っても過言ではないとさえ思えました。(恩師などという言葉はもはや死語となっているのでしょうか)
論理療法を拠り所として、教師の皆さん「治療」と「教育」を明確に識別し、スクールカウンセラーではなく「教育カウンセラー」となるべく、日々学び勉強し続けて成長してください。
教師そのものが自らの人生を語れなくて本当に「教育者」足りえるのか。
教師そのもののあり方を考えさせられた貴重な時間でした。
“教育カウンセラー” への1件の返信
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教師そのものが自らの人生を語れなくて本当に「教育者」足りえるのか…そのとおりですね。教師が人生を語れなくなったことが、今日の教育の荒廃を招いている最も大きな要因ではないかと私も思っています。それでも語らなければならなくなったときには、校長といえども自殺してしまうとか。なんとも残念なことです。
でも、教員になるのに受験勉強の成果しか問われないっていうシステムがある以上、彼らばかりを責められないのではないしょうが。
日本の学校教育は、ゆとり教育や個性を伸ばすといった尤もらしい理由で今日まで来ました。
その結果誰も豊かで明るい毎日を過ごせなくなったと私は考えています。
子どもはしっかりと週6日間学校教育を受ければ良いと考えています。そうすることで、教育時間が確保され教師にもゆとりが生まれ、結果として子どもたちにも落ち着いた集中力のあるゆとり教育が行えると思っています。
三豊市独自の教育として、子どもも家庭も学校も3者すべてのゆとりを確保するべく、週5日制から6日制への方向を検討できないか、と思っているところです。
たくま まさし