教育に効率を求めることがあっては、ろくな世の中にならないことや、 「子どものために」 とは子どもの望むことだけをするのではないということは誰もが知っていることだと思います。
「子どものために」 と言いながら、実は 「大人の都合のために」 が含まれているのではないでしょうか。
あえて困難や障害などの負荷を計画的に用意するのが教育なのだと私は思っています。
あえて学校という集団を用意し、あえて保護者に我慢を強いるなど、なんと面倒くさい事なのでしょうか。
それでも、それを教育という名の下で行うのは、人が育ち成長するにはそのことが必要なのだと、誰もが気づいているからなのです。
6月議会一般質問通告の2件目 「新学校給食センター基本構想の方式 と “弁当の日” の関係について」 を考える時、 「子どものために」 とか 成長とは何かとかを熟考しています。
学校給食の目的を果たすことで、かえって忘れられていく教育的要素を、違った形で補わなくてはならないのではないかということです。